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<奥羽の義>番外編 列藩同盟群像(5完)降伏拒み戦い続けた「鬼」

夕日に照らされた大内宿。鶴ケ城を出た佐川官兵衛は大内地区を新政府軍から奪還するなど、奥会津方面で粘り強く遊撃戦を展開した
会津藩家老・佐川官兵衛の肖像画(熊本県南阿蘇村の「鬼官兵衛記念館」所蔵)

◎会津藩家老 佐川官兵衛

 会津藩家老の佐川官兵衛は猛将として鳴らし、「鬼官兵衛」と称された。血気盛んな主戦論者で、最後まで降伏を拒んだ。若気の至りで一度は粗暴に走り、酒で失敗もしたが、いちずで飾らない人柄が愛された。
 上級藩士の家に生まれ、藩校日新館を優秀な成績で出た。「佐川官兵衛君父子之伝」(横尾民蔵著)などによると、1857(安政4)年ごろ、25歳で家督を継いだが、直後の江戸在勤時に幕府旗本ともめて斬り殺してしまう。罰として家禄(かろく)を削られ、会津で謹慎させられた。
 再び世に出るのは63(文久3)年。藩主松平容保(かたもり)が京都守護職に就任し、佐川も上京した。武勇を買われて藩士子弟の指導役となり、精鋭「別選組」の隊長に就いた。
 68年1月(慶応3年12月)に王政復古が強行されると、「先手を打つべきだ」と先制攻撃を主張。新政府軍との初戦となった鳥羽・伏見の戦いでは刀が折れ、右目を負傷しても戦い続けた。これを機に、鬼と呼ばれるようになった。
 その後、朱雀4番士中隊長に任命され、来る決戦に備えて兵に最新のフランス式戦術を学ばせた。
 長岡藩家老河井継之助を訪ねて奥羽列藩同盟に北越6藩を呼び込み、自身は北越で長岡藩と共闘した。敗れて退却する際は帽子を前後逆にかぶり、「これで敵に背を向けたことにならない」と笑ったと伝わる。
 同年旧暦8月から1カ月間繰り広げられた会津・鶴ケ城での籠城戦を前に呼び戻され、家老に昇進するが、籠城戦で大失敗をする。早朝に城を打って出る奇襲作戦の責任者を任されたのに、深酔いして寝過ごし、出遅れたのだ。前夜に容保が宝刀を贈り、酒を振る舞い激励したため、感極まって飲み過ぎたらしい。
 「戊辰役戦史」(大山柏著)に記述がある。大河ドラマ「八重の桜」でも描かれた。佐川は自身の結婚式も酔って遅刻したという。酒にのまれるタイプだったのか。
 ただ、ここから挽回するのが彼の真骨頂。前夜に「目的を果たすまで決して帰りません」と容保に誓っていた佐川は、城に戻らず城下町で遊撃戦に転じ、新政府軍を破った。おめおめと帰れない気持ちもあったに違いない。
 さらに城下を出て南進し、占領された大内地区(福島県下郷町)を奪回。地元農民と連携して田島陣屋(同南会津町)から敵兵を追い出すなど、奥会津方面でゲリラ戦を展開した。
 会津藩降伏後、奥会津では3日間も戦火がやまなかった。「田島町史」によると、佐川は降伏を伝えに来た使者を前に「薩長の何が王師だ。わが藩が朝敵でないと認めてもらえない限り命には従えない」と怒りを抑えられなかった。容保が直筆の書状を送り、ようやく従った。
 奥会津博物館(南会津町)の渡部康人研究員は(58)「奥会津方面では会津側が優勢で、兵を引きたくない気持ちがあったのだろう。新政府側も逆襲を恐れて、すぐに武装解除できなかったのではないか」と推測する。
 明治以降は、斗南藩行きを経て、彼の武勇を知る初代警視総監川路利良の要請で新政府の警視庁1等大警部に就任。西南戦争の激戦地、熊本阿蘇山麓に赴き、薩摩軍の隊長と刀による一騎打ちの最中、やぶに潜んでいた農兵に狙撃された。鬼の異名に恥じない最期だった。

 西南戦争で警視庁1等大警部として熊本の阿蘇山麓に赴いた佐川官兵衛は、部下の略奪行為などを厳しく戒め、不祥事を一切起こさず現地住民に尊敬された。熊本県南阿蘇村に伝わる話によると、周囲が佐川を「彼が有名な鬼官兵衛だ」と紹介したため、住民は「鬼」が名字だと勘違いした。住民から「鬼さま、鬼さま」と話し掛けられ、「自分の名は佐川だ」と苦笑した。親しみやすかったのだろう、子どもたちもよく寄ってきた。佐川は「よしよし。今に敵の首を取ってきてやるぞ」と頭をなでてやったという。(文と写真・酒井原雄平)


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2019年05月12日日曜日


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