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<裁かれる優生手術>(上)苦難の歩み 「名乗り出て」叫び20年

提訴後の記者会見で声を詰まらせながら思いを語る飯塚さん。審理に欠かさず臨み続けた=2018年5月17日、仙台市内

 優生手術にむしばまれ、傷だらけになった心と体で、その日を待つ。

 ◆消えぬ恨み
 宮城県の飯塚淳子さん(70代、活動名)。昨年5月、国の責任を問う仙台地裁の国家賠償請求訴訟の原告に加わった。
 「優生手術に振り回された人生ですよ」。過去を思い返すたびに表情が曇る。
 中学3年で福祉施設に入った。近所で盗みを働いたと疑われ、民生委員に仲介された。身に覚えがないことだった。旧優生保護法(1948〜96年)下で卵管を縛る不妊手術を強いられたのは16歳の時だった。
 施設を出てから、住み込みで職業訓練をする「職親」の家で働いた。後に、優生手術を働き掛けたのは職親と民生委員だったと実父に聞かされた。
 結婚は3回。いずれも夫は飯塚さんの元を去った。子を産めない引け目もあり、引き留めることはできなかった。
 職親や民生委員への恨みは消えない。「国が手術を推し進めなければ違う人生だった」。旧法が母体保護法に改定された翌97年から被害を訴えてきた。
 孤独な闘いだった。全国にいるはずの被害者はなかなか名乗り出ない。
 声を上げ続けて20年。ようやく同志と呼べる仲間と出会った。宮城県在住の佐藤路子さん(60代、活動名)。昨年1月、旧法を巡る全国初の訴訟を仙台地裁に提起した原告女性の義姉だった。
 「なぜ義妹が不妊手術を受けなければならなかったのかと、ずっと不審に思っていた。飯塚さんと同じ強制手術だったのだと気付いて力になりたかった」。佐藤さんが振り返る。
 ◆振り絞る声
 4年前、飯塚さんが日弁連に人権救済を申し立てたことを報道で知った。その後の宮城県への開示請求で手術記録が見つかり、義妹の提訴を決めた。記録が「不存在」とされた飯塚さんも、県が一定の条件を満たせば手術の事実を認める方針を示したことで提訴に踏み切れた。
 「勇気を出して被害を名乗り出て」。この1年、飯塚さんと佐藤さんは各地で声を振り絞った。提訴の動きは広がり、これまでに全国7地裁で計20人が原告となった。昨年12月には全国組織「優生手術被害者・家族の会」が発足。飯塚さんは共同代表に就いた。
 世論の高まりを受け、4月下旬に国会で救済法が成立した。一時金の支給などが盛り込まれたものの、前文に記されたおわびの主体は「われわれ」。国の責任を曖昧にした表現に被害者らは落胆した。
 提訴後の審理は計7回。「奪われた人生は戻ってこない。せめて裁判所は国の責任を認め、手術に関わった全員に謝ってほしい。それだけなんです」。30代で子宮筋腫と診断され、乳がんを患う。体調は万全ではない。それでも悲憤を胸に、飯塚さんは毎回法廷に臨み続けた。

 旧優生保護法を巡る全国初の国賠訴訟の判決が28日、仙台地裁で言い渡される。訴訟は、子を産み育てる権利を奪う優生手術の闇を白日の下にさらした。原告らの道のりと、1年4カ月にわたった法廷での応酬を振り返る。(報道部・横山勲)


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2019年05月25日土曜日


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