広域のニュース

<東京五輪 1964年の記憶>インフラ整備 東北から出稼ぎ 下支え

急ピッチで工事が進められる国立競技場。中央は棒高跳びの助走路=1963年2月
上に首都高速道路が建設される直前の日本橋。右側には首都高の橋脚が迫る=1963年2月、東京都中央区

◎膨大な予算投入

 1964年東京五輪は街のかたちを変えた。東海道新幹線、首都高速道路、東京モノレール…。開催決定を起爆剤に、交通インフラの整備が一気に進んだ。
 福島県飯舘村飯樋の佐藤隆芳さん(81)が東京に出稼ぎに行ったのは開幕の2年近く前だ。「工事に入ったのは日劇前の有楽町、数寄屋橋辺りだったかな」。首都高は62年12月に京橋−芝浦間4.5キロが最初に開通している。佐藤さんは工事の仕上げ作業に携わった。
 数寄屋橋は江戸時代初期、仙台藩祖伊達政宗が架橋したとされる。堀は高速道路用地として埋め立てられ、橋も58年に取り壊されていた。
 64年五輪の開催経費は、組織委員会が99億4600万円、国立競技場など大会施設整備費165億8800万円の計265億3400万円。しかし、これは直接分にすぎない。
 東海道新幹線や道路、地下鉄の整備など、関連事業費は9608億2900万円に上った。国家予算が3兆円台の時代、年間予算の3分の1近い巨費が投じられた。
 建設ラッシュを支えたのは、東北から上京した出稼ぎ労働者だった。わずか18カ月という驚異的な突貫工事で完成させた国立代々木競技場(東京都渋谷区)は、飯舘村出身者が多く関わっている。佐藤さんは思い起こす。「出稼ぎ中、作業時の感電事故で亡くなった人もいた」

◎原発建設に従事

 佐藤さんはその後、福島県内にあって首都圏の電力需要を支えた東京電力福島第1原発の建設工事にも従事した。「(原発施設の)コンクリートの厚みに驚いた」
 2011年、原発事故で村は全村避難を余儀なくされた。2年前、一部を除き避難指示が解除されると、佐藤さんは福島市内の住まいから、毎週、村に戻って花の栽培を始めた。
 事故前、住民は6000人いた。村に戻ったのは、まだ2割に満たない。
 来年3月、福島県楢葉町・広野町のJヴィレッジをスタートする五輪聖火リレーは飯舘も通過する。
 働き手の去った田畑には太陽光発電の黒光りしたパネルが並び、除染土を詰めたフレコンバッグが無造作に積み上がる。そんな光景が至る所に見受けられるが「(聖火リレーは)見栄えのいいところだけ通るんでないの」。佐藤さんはつぶやく。


2019年07月02日火曜日


先頭に戻る