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<東京五輪 1964年の記憶>テレビの普及 街の電器屋さん大忙し

東京五輪の開会式の模様を放映するカラーテレビの前に、黒山の人だかりができた=1964年10月10日、仙台市の青葉通にあった日立ファミリーセンター
大畑 俊雄さん

 箱の中で動く選手の姿に人々が歓喜した。1台の小さなテレビに大勢の人が群がる。令和の時代には信じ難い光景が日常にあった。
 宮城県迫町(現登米市)の大畑電機商会は1958年秋、理容師だった大畑俊雄さん(87)が創業した。アマチュア無線が趣味だったのがきっかけだったが、転職はすぐに成功をもたらした。
 最初の波は59年の皇太子殿下(現在の上皇さま)と美智子さまのご成婚。二つ目が64年の東京五輪だった。「(60年代)最初に売り出したのが26万8000円の14型カラーテレビ。徐々に売れていったのを覚えている」。国家公務員の初任給が1万9000円台の時代だ。
 「最初に買ってくれたのはたいていお医者さんだったねえ」と大畑さん。「待合室に置いたテレビに青い空と緑の芝が映っただけで歓声が上がったな」
 ピーク時は月に30〜40台を売りさばいた。店に在庫が入り切らず、近所に倉庫を借りてしのいだ。娯楽を求めてだろうか、山間部からの注文も多かった。オートバイに台車をつないで未舗装の道路を駆け巡る。娘の徳見子(えみこ)さん(63)は「冬になるとお父さんが雪だるまになって帰ってきた」と笑う。
 周りから見れば商売繁盛に見えたかもしれないが「資金繰りは苦しかったよ」と大畑さん。「きちんと支払いをしてくれたのはお医者さんくらい。『暮れに払うよ』とか『葉タバコで払ってもいいか』とか」。軽くなった台車に代金代わりのコメを載せて帰ることも一度や二度ではなかった。
 東京五輪の期間中は店舗のテレビで競技を映した。あっという間に人が集まり、徳見子さんたちはお茶を出して近所の人たちをもてなした。マラソン、体操、バレーボール。日本選手の活躍にみんな歓喜し、店は夜遅くまでにぎわう。
 「たった1台のテレビを、大勢の人が食い入るように見詰めていた」。大畑さんは世界最大のスポーツの祭典の偉大さをかみしめていた。

 テレビの普及はスポーツ観戦の在り方を変えた。以前は現地に足を運ぶか、ラジオの音声に想像力を膨らませるしかなかったが、誰もが自宅で楽しめるようになった。
 地域に一台だったテレビは一家に一台、一人に一台の時代へと変わっていく。ブラウン管は液晶となり、今や有機ELの時代だ。4K、8Kと精密度を競う。メード・イン・ジャパンが世界を席巻した時代は終わり、国内メーカーは相次いで生産から撤退している。
 「時代は変わったねえ」と大畑さん。2020年に向け、今の42型のテレビを新しいものにするか思案中だ。


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2019年07月03日水曜日


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