宮城のニュース

<東京五輪 受け継ぐレガシー>世界と技術互角に 確信

1964年東京五輪の選手村で正装する大和田さん(右)
1964年東京五輪の思い出を語る大和田さん

 1964年の東京五輪で培われた競技の土壌は、今もなお東北に生きている。レガシー(遺産)を受け継ぎ、新たなアスリートを生み続ける現場を追う。
(2020年東京五輪取材班)

同郷の後輩入賞

 1964年東京五輪は日本女子フェンシングにとって黎明(れいめい)の時だった。60年ローマ大会は選手派遣見送り。「実力不足」が理由だ。そこから4年。選手は鍛錬を積み上げ、国内初の五輪が晴れ舞台になった。
 フルーレに出場した宮城県気仙沼市出身の大和田智子さん(78)は、予選で世界の洗礼を浴びている。
 1回戦は何とか通過。激闘に思いのほか体力を消耗した。「大の字になって横になりたい」。試合会場の早大構内で毛布を抱えて休憩場所を探したが、見つからない。疲れが回復しないまま2回戦で敗れた。
 悔しさの中で確信したこともある。「いつか世界と渡り合える時が来る」。体力に差はあっても技術や戦術は伸ばせるはず。そう信じて母校の専大で後進の指導を続けた。
 40年を経て、確信は現実になった。同じ気仙沼市出身の菅原智恵子さん(42)が2004年アテネ大会にフルーレで初出場した。2回戦で敗退したが、08年北京、12年ロンドン大会は7位入賞を果たした。
 同じ鼎が浦高(現気仙沼高)出身。高校時代から荒々しく破壊力のある剣さばきにほれ込んでいた。菅原さんが日体大に進んだ後も気に掛けていた。
 菅原さんが大学1年の時、ジュニアの世界大会代表選考会で敗れたことがあった。会場で大声を上げて泣く菅原さんを叱った。
 「五輪に出られないというなら分かるけど、こんな大会に負けたくらいで泣くなんて。そんな選手じゃないの、あなたは」
 菅原さんは思う。「あの言葉がなかったら、私は五輪に行けなかった」。7位は今もなお残る日本女子の最高成績だ。

次代に思い継承

 思いは再び次代に継がれる。20年東京五輪。菅原さんの背中を追っていた少女が出場を目指している。
 フルーレの元世界ランキング日本人トップで、宮城県利府町出身の狩野愛巳(22)=日清製粉グループ本社、仙台三高−早大出=。けがで出遅れているが、夢は諦めていない。
 狩野にとって菅原さんはスターのような存在だった。小学生時代は指導を受けるため、1人で電車に乗って利府町から気仙沼市まで通った。高校生と同じメニューをこなし、個人レッスンを受けた。
 トップフェンサーと間近に過ごした記憶は鮮明だ。「体つきや目つきが違う。殺気があり、戦う準備ができている。中途半端な覚悟では勝てないと学んだ」
 2年前に右手首を故障し2度手術した。完治せず、3度目の手術も考えていたが回避した。現在日本代表コーチの菅原さんに、体づくりなどの助言を受けながら復活を期す。
 「五輪への思いは継承されるもの」。大和田さんは目を細める。「先輩は後輩のための踏み台にならないといけない。そして狩野選手は智恵子さんを乗り越えないといけない。そうやってそれぞれが役割を果たしている」


2019年08月03日土曜日


先頭に戻る