宮城のニュース

<伝える戦禍>(1)インパール作戦生還/死線の記憶 回顧録に

出征前に撮影した家族写真。信一さん(後列右から2人目)の前の遺影は父の後藤伍長=1943年6月、宮城県栗原市栗駒
後藤信一さん

 終戦から74回目の夏が来た。時代は平成を経て令和に移り、昭和はさらに遠のいた。だが、東北の戦争体験者に刻まれた記憶が色あせることはない。平和の祈りを次代につなぐために、戦禍を語る言葉は年を追って重みを増している。(5回続き)

◎栗原 後藤信一さん(105)/「山道は、足の踏み場も無いくらい白骨が続く」

 「山道は、足の踏み場も無いくらい白骨が続く」「(遺体の)鼻や口はハエで真っ黒に」。自らつづった回顧録にむごたらしい描写が続く。
 栗原市栗駒の後藤信一さん(105)は、旧日本軍のインパール作戦から生還を果たした。退却時には食料もない。精根尽きた戦友が次々と命を落としていった。

■密林の中を進軍

 信一さんの父は、八甲田雪中行軍の生き残りとして知られる後藤房之助伍長。1902年1月、訓練中の199人が遭難死した大惨事だ。
 信一さんが召集令状を受け取った43年6月、まず思ったのは死地から生還した父のことだった。「俺だってどんなことがあっても必ず帰ってくる」。そう肝に銘じた。
 王城寺原演習場(宮城県大和町、色麻町、大衡村)などで約2カ月の訓練を終え、山口・下関から輸送船に乗った。目的地はベトナムのサイゴン(現ホーチミン)。上陸したのは43年9月だった。ミャンマー中部の都市マンダレーに移り、北西約400キロにある最前線のジェサミへ。密林の中を進軍した。
 当時の惨状を2000年にノートにつづった。「兵隊たちは皆栄養失調になっていて、『今日は、誰々が死んだ』と言う」「隊長は(歩けない)患者を1カ所に集めて手榴(しゅりゅう)弾を預けた」。退却命令後の窮状を克明に記した。
 信一さんも両手に持ったつえで体を支え、辛うじてマンダレーにたどり着いた。毎日歩く。それだけに専念した。

■長男が執筆提案

 戦後は故郷に戻って農業に従事した。6人の子どもを育ててくれた妻たねみさんは60歳で他界。戦友に会いに行くこともあったが、皆鬼籍に入った。
 回顧録の執筆は、体調を崩した時に長男の公佐(こうすけ)さん(81)から提案を受けた。「戦争体験を子どもたちに残してほしい」。書きためた内容をまとめ、06年に回顧録「南方の空の下で インパール作戦の生き残り」として製本した。
 回顧録は25部を印刷して家族、親類に贈った。長く心にとどめていた生々しい南方戦線の記憶。公佐さんは「断片的に戦争の話は聞いていたが、立ち上がることができないほどの飢えと闘ったとは知らなかった」と振り返る。
 信一さんは現在、栗原市栗駒の高齢者介護施設で暮らす。先日、久しぶりに回顧録を手に取ると、声を振り絞った。「天皇陛下の命令を全うすることだけ考えた。戦争は嫌なもんだ。ない方がいい」
 死線をさまよった信一さんの回顧録。公佐さんらきょうだいは「後藤家の『教本』」と受け止める。戦争を知らない孫、ひ孫たちの世代に受け継いでいくつもりだ。
(栗原支局・門田一徳)

[インパール作戦]1944年、旧日本軍が英領だった要衝のインド北東部インパールの制圧を目指した作戦。食料や武器弾薬の補給を軽視したずさんな作戦といわれる。日本軍は約3万人が戦死したとされ、その多くは餓死。日本軍の退却路は「白骨街道」と呼ばれる。


関連ページ: 宮城 社会

2019年08月15日木曜日


先頭に戻る