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<伝える戦禍>(2)空襲体験を絵本に/悲劇伝承、ジジの役割

古い新聞など戦時中の資料を調べる菅森さん

◎盛岡 菅森幸一さん(82)「銃弾が部屋を通り抜けていった」

 「午前十時、いつもの警戒警報で慣れっこになっていたジジたちは、見慣れない大編隊に肝を潰(つぶ)した。二十数機の艦載機による空襲の始まりだった」
 盛岡市の菅森幸一さん(82)は小学生で2度の空襲を体験した。2人の孫に伝え残そうとしたためた絵手紙は50枚。これを1冊にまとめて2009年、絵本「ジジからの絵手紙」を出版した。
 雪が50センチほども降り積もった1945年3月10日午前2時ごろ、米軍のB29爆撃機が盛岡駅近くの北上川沿いに焼夷(しょうい)弾を投下した。

隣家が火の中に

 「起きなさい」と叫ぶ母親の声と爆音で目を覚ますと、隣家が火に包まれていた。大人たちが家財道具を運び出す。火の粉が燃え移らないよう見張り番をした。
 「見渡すと、火のトンネルになった大沢川原を親子が泣き叫びながら走っていた」。隣の老夫婦と、向かいにあった旅館の宿泊客1人が犠牲になった。
 「日本、負けるの?」。母親に尋ねると、家まで連れて行かれ「そっだらこと言うもんでねえ」と怒られた。隣の焼け跡では警察が片付けをしていた。「反戦を口にすれば逮捕される時代。最も恐ろしかった記憶の一つだ」
 2度目の空襲があったのは、終戦間近の8月10日午前10時ごろだった。警報が鳴り、空に黒い機体が見えた。
 街を機銃掃射にさらされ、母親と2人で押し入れの布団の間に潜った。「銃弾が部屋を通り抜けていった」。その日の夜は街中が静まり返っていた。
 1度目の空襲では盛岡駅地区を中心に鉄道の関連施設や民家155戸が焼失し、死傷者は8人、被災者は613人に上った。2度目は国鉄盛岡工場、盛岡ガスが爆撃の対象となった。被災者数は分からない。

生活と教育 一変

 そして終戦。戦争が終わったと実感できたのは、9月に入って進駐軍が街を闊歩(かっぽ)するようになってからだった。
 「生活も教育も180度変わり、ラジオからは警報ではなくジャズが流れた。子どもだった私の中では、敗戦の悔しさより解放感が勝っていた」
 95年に教員を退職。絵本の出版と前後して自らの体験を伝える講演活動を始めた。死と隣り合わせだった日々は「今でも鮮明。同じ過ちを繰り返してほしくない」と訴える。
 いや応なく戦争に巻き込まれた市井の人々の悲劇を伝えたいが、子どもたちにとっては遠い過去の物語だ。「言葉の一つ一つに説明が必要で、つらさが伝わるように話すのは難しい」
 それでも「事実を伝え続けることが年寄りの役割であり、責任」。この夏もまた、盛岡空襲を語り継ぐ。
(盛岡総局・北村早智里)


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2019年08月16日金曜日


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