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<伝える戦禍>(3)帰国前に妹、弟と死別/満州の惨劇 語る決意

満州開拓に当たった鎌田さん一家。左が三千子さん=1945年5月、三江省千振
鎌田三千子さん

 終戦から74回目の夏が来た。時代は平成を経て令和に移り、昭和はさらに遠のいた。だが、東北の戦争体験者に刻まれた記憶が色あせることはない。平和の祈りを次代につなぐために、戦禍を語る言葉は年を追って重みを増している。(5回続き)

◎角田 鎌田三千子さん(80)/「子どもたちに命の大切さを」

 「どうぞ先に行って」と道に座り込んだお年寄り。おにぎりを食べる力もなく、栄養失調で亡くなった3歳の妹。
 満州(現中国東北部)出身の鎌田三千子さん(80)=角田市=の脳裏に、6歳だった時の満州引き揚げの悲劇が焼き付いている。
 鎌田さんの父は山形県高畠町出身で、両親を亡くし、満州に渡った。南満州鉄道(満鉄)が設けた農業学校で学んでタバコ栽培指導員になり、旧ソ連国境の三江省(現黒竜江省)千振(ちふり)で開拓に従事した。鎌田さんは6人きょうだい(姉2人は鎌田さんの誕生前に死亡)の三女として生まれた。
 終戦直前の1945年8月9日、旧ソ連が対日参戦。父ら男性は召集され、残された移民の引き揚げは悲惨を極めた。鎌田さんも銃弾をかいくぐって逃げた。

■移民見捨てた軍

 現地では橋が壊され、引き揚げは難航した。「川を渡る時に人が流されても、手を差し伸べられなかった」と振り返る。「中国人が橋を壊した」とうわさされたが、後に、満州を守備していた関東軍が旧ソ連軍の進撃を妨げるために破壊したと知った。
 千振の移民が「危険だから逃げた方がいい」と話し始めた8月10日、関東軍は移民を見捨てて逃げていた。鎌田さんは「同じ日本人がそんなことをするとは思わなかった」と憤る。
 引き揚げ途中、中国人が鎌田さんを買いに来たが、鎌田さんは母にしがみついて泣き、母も鎌田さんを離さなかった。母は戦後「みんなで死のうと何度も思った」と漏らした。泣く子に薬を飲ませて死なせ、遺体を埋めた親もいたという。
 「父ちゃんに会うまで頑張ろう」と励まし合った一家。2カ月後、長春で父と再会したが、その日に妹が亡くなった。5歳の弟も翌46年6月、帰国の2カ月前に亡くなった。日本の土を踏めたのは鎌田さんと両親、兄(85)の4人だった。
 戦争で全財産を失った父は「形あるものはなくなる。人から奪えないのが教育」と繰り返し、信念としていた。鎌田さんは尚絅女学院短大(現尚絅学院大)に進み、角田市の角田カトリック幼稚園で幼児教育に携わる。
 地域活動にも熱心で、約20年前から市地域婦人会長を務め、健康づくりなどの活動の先頭に立つ。

■6年生に授業へ

 かつて尚絅学院高で戦争について語ったことがあったが、満州での悲劇はほとんど口にしてこなかった。ただ、戦争の記憶が薄れゆく中、語り継ぐ必要性を感じている。今年、地元の角田市桜小の要請があり、2学期に6年生の授業で体験を語ることになった。
 鎌田さんは「弟や妹のように悔しい思いで亡くなった人々を忘れてはいけない。子どもたちに命の大切さを伝えたい」と誓う。
(生活文化部・会田正宣)


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2019年08月17日土曜日


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