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<伝える戦禍>(5完)遺族会で活動/犠牲者に敬意 一心に

軍服姿の伊藤忠さん=1938年6月ごろ
内藤和子さん

終戦から74回目の夏が来た。時代は平成を経て令和に移り、昭和はさらに遠のいた。だが、東北の戦争体験者に刻まれた記憶が色あせることはない。平和の祈りを次代につなぐために、戦禍を語る言葉は年を追って重みを増している。(5回続き)

◎涌谷 内藤和子さん(75)/「未来の子らへの継承を手伝いたい」

 父を知らない。しかし、身近に感じて生きてきた。
 宮城県涌谷町の内藤和子さん(75)は生後10カ月だった1945年2月、父の伊藤忠さんを失った。陸軍中尉として赴いた中国広西省で戦死。37歳だった。
 仙台市出身の忠さんは仙台二中(現仙台二高)、東北学院大で学び、小学校教諭になった。25年に夏の甲子園に出場した野球好き。文章や絵も得意。戦地から絵手紙を送り、遠く日本に残した家族を気遣った。

■父の生きた証し

 忠さんは写真や手紙、新聞の切り抜きなど200点を残した。内藤さんは幼い頃から、父の生きた証しに触れてきた。母正子さんや4歳上の兄尚武さんから思い出話を聞き、父の姿を想像した。
 「教え子からの感謝の手紙もある。人から慕われていてハンサムで。いつもそばにいるように思えた」
 仙台市に生まれた内藤さんは終戦直後、親戚が住む涌谷町に移り住んだ。生活は苦しい。母が着物を食べ物と交換するなど苦労しているのを見て育った。「戦争がなければ、父が生きてさえいれば、もっといい生活ができたのかも」と思うこともあった。
 地元の小中学校を卒業後、看護学校で学んで看護師に。町職員だった夫と結婚して2人の娘に恵まれた。
 18年前に町戦没者遺族会の会員になり、事務局長を任されるようになった。自治体や社会福祉協議会が遺族会の事務連絡を担うケースが多いが、涌谷では内藤さんら個人が全ての事務をこなしている。
 事務局長としての業務は幅広い。終戦記念日などに地元や仙台市の神社で行われる慰霊祭では、参列する会員の取りまとめやバスの手配に当たった。会費集めや神社周辺の草刈りのボランティア。「日本遺族通信」(日本遺族会)の配布もある。

■解散した地域も

 「父をはじめ犠牲になった人たちに敬意を払いたい」。そんな思いで活動を続けてきた。
 かつて遺族会の運営は、戦争で夫を亡くした女性が中心だった。やがて主体は内藤さんら遺児やきょうだい、孫の世代に移った。戦争の記憶が薄れるにつれ、担い手不足が深刻化している。
 涌谷町でも18年前に300人超だった会員は130人に減った。宮城では遺族会が解散した地域もある。「いずれ私たちも大きな決断を迫られるかもしれない」と感じている。
 現在、遺族会では次女が活動してくれている。「遺児としての役目は果たした。今後は未来の子らへの継承を手伝いたい」と言う内藤さんは、会務を離れたらやりたいことが一つある。多忙で果たせなかった中国訪問だ。最期の地で手を合わせ、天国の父に声を掛けようと思っている。
(小牛田支局・山並太郎)


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2019年08月19日月曜日


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