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<双葉病院・現地ルポ>救助難航犠牲次々と 医師不眠不休で回診、避難先医療機器なし

巨大地震発生直後の病院前の様子。入院患者が集められ、職員は今後の対応を協議していた=2011年3月11日午後3時5分ごろ(病院関係者提供、写真の一部を加工しています)

 「避難指示が出されました」
 2011年3月12日午前6時すぎ、福島県大熊町で防災行政無線が流れた。政府は直前、東京電力福島第1原発の半径10キロ圏内に避難指示を出していた。
 双葉病院と系列の介護施設は第1原発から約4.5キロに立地する。病院が遺族に提供した説明資料によると、この時点で職員は町に救助を依頼していたが、まだ正確な状況は把握できていなかった。
 入院患者338人の多くが認知症で、寝たきり。末期がんを併発した患者もいた。98人が入所していた介護施設の職員室には「診療録」と「職員家族構成」のファイルが散乱し、当時の慌ただしい様子が浮かぶ。
 地震による停電で医療機器が使えず、医師らは余震が続く中、ろうそくを頼りに全てのケアを手作業で行った。11日の最低気温は氷点下2度。水道やガスも止まっていた。
 12日正午ごろにバス5台が到着すると、まず自力で歩ける患者209人が避難した。医師と看護師はほぼ全員が同行。「すぐ次の救助が来る」と考えての対応だった。
 午後3時半すぎ、異様な爆発音と地鳴りが響く。1号機で水素爆発が起きた瞬間だった。直後に全職員が避難した町役場は「死の危険を感じた」と後日、病院に語っている。
 続くはずの救助が一向に来ない。残った医師は手分けし、不眠不休で回診を続けた。介護施設ロビーには薬剤がつり下げられた点滴台がそのまま残る。
 病院に残された患者は14日朝までに3人が死亡。既に限界が訪れていた。
 14日午前4時、自衛隊による救助がようやく再開され、132人がバスで移動を始めた。大半が重症患者だったが、少ない医療スタッフは同行できなかった。
 第2陣のバスはいわき市内の高校を目指した。直線距離で約30キロだが、原発周辺の迂回(うかい)を強いられ、実際の移動距離は約230キロに上った。降車するまでの11時間、医療や排せつケアを施せず、避難先の体育館にも医療機器はなかった。14人が15日朝までに死亡した。
 救助は「第5陣」まで続いた。放射線量の急上昇や情報不足によって救助は途切れがちとなり、全員の搬出を終えることができたのは16日未明。低体温や脱水症で衰弱し、避難後も次々に死亡が確認された。
 東電旧経営陣の刑事責任が問われた法廷で、対応に当たった男性医師は「原発事故がなければ、患者たちは亡くならなかった」と証言。目にした光景に悔しさを募らせた。


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2019年09月08日日曜日


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