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震災遺児、こんなふうに大人になった 神戸の25歳女性、津波遺児と交流続ける

智美さんの名前が刻まれた銘板を見つめる楓香さん=神戸市中央区の「慰霊と復興のモニュメント」

 阪神大震災で母を失ったのは生後4カ月のことだった。あれから25年。神戸市灘区のアパレル店店員、浦田楓香(ふうか)さん(25)の周りにはいつも誰かがそばにいて、どんな感情も受け止めてくれた。「さみしくなかった。1人じゃなかったから」。振り返ると、自然に感謝の言葉がこぼれた。

 震災で神戸市兵庫区の木造アパートが全壊し、母の智美さん=当時(19)=がはりの下敷きになって亡くなった。助け出された楓香さんは、母方の祖父母の養女として育てられた。
 祖母の明美さん(71)はつらい思いをさせまいと、自分が母親で、亡くなったのは「姉のともちゃん」だと教えた。楓香さんが真実を告げられたのは小学3年の時。「本当はおばあちゃんなんよ」。不思議な感覚ですぐにのみ込めなかったが、明美さんを変わらず「お母さん」と呼んだ。
 「娘」として愛情を注がれ、母を失ったさみしさを感じる場面はなかった。でも、やっぱり友人には本当のことを言いにくい。「話そうとするとどこか気持ちが暗くなる」。複雑な感情が込み上げた。
 遺児の心をケアするあしなが育英会の「神戸レインボーハウス」(神戸市)では、解き放たれたように夢中で遊んだ。時に大人をたたいたり蹴ったり、縫いぐるみの中身をぶちまけたり。「やり場のない何かを発散して、自分が気付かんうちに周りの人たちにケアされとったんやな」と思い返す。
 震災時は幼く、智美さんのことも、街の惨状も覚えていない。抱っこされている写真でしか母を知らない。震災遺児と言われても実感がなかった。
 中学生の時、自分の名前の候補がいくつも書かれた母子手帳を見つけた。たんこぶができたり、風邪をひいたりした時の心配も。「ともちゃん、こんなふうに思ってくれてたんやな」。わずか4カ月間の記録でも対話できた気がして、うれしかった。
 「もういないともちゃんのことを、知ったところでどうするんや」。どこかで冷めた感情を抱いていた自分もいた。少しずつ智美さんのことを語り始めたのは高校生の頃だ。「生きた証しになるんやったら、話していく」。心のもやもやも晴れるような気がした。
 16歳の時に東日本大震災が起きた。以来、あしなが育英会の支援で東北に足を運び、津波遺児と交流を続ける。被災地のことを知りたいと、短大卒業後、宮城県南三陸町の水産加工会社でも働いた。
 震災の記憶がないため、人前で何か伝えようとしても生い立ちの紹介になる。悩んだが、それでも行く先々で感謝された。阪神大震災の遺児がこんなふうに大人になった−。ただそれだけで津波遺児の保護者を励ました。
 今も気持ちを表現するのが苦手だ。けれども25年たって少しは話せるようになった。気付けば、東北の子どもの隣で耳を傾け、何げないおしゃべりをする自分がいた。いつも明美さんや、レインボーハウスのスタッフらたくさんの大人に寄り添ってもらったように…。
 「今度は私が力になりたい。大したことはできないけれど、そばで話すだけで東北の皆さんの心がほぐれるんやったら、うれしい」(報道部・吉田尚史)


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2020年01月17日金曜日


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