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「それぞれの五輪」君原健二さんに聞く【インタビュー全文掲載】

「円谷さんと共に」と話す君原さん。今も走り続ける=北九州市の自宅前
「円谷さんと共に」と話す君原さん。今も走り続ける=北九州市の自宅前

 夏に迫った東京五輪。かつて大舞台を彩ってきた人たちも期待に胸を躍らせている。それぞれの「五輪」を大いに語ってもらった(2020年1月に河北新報紙面とオンラインニュースに公開したインタビューの全文を掲載します)。

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[君原 健二(きみはら・けんじ)]北九州市出身。高校卒業後、地元の八幡製鉄に入社し、1964年東京五輪から3大会連続出場。75歳で挑んだ2016年ボストンマラソンなど、競技引退後を含め出場した74回のフルマラソン全てで完走している。

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 東京五輪という言葉で、円谷幸吉さん(須賀川市出身)を思い出す人も多いだろう。1964年東京大会の男子マラソンで銅メダルに輝いたランナーは、栄光の4年後に自ら命を絶った。同時代を駆け抜けた68年メキシコ大会の銀メダリスト君原健二さん(78)は3月、円谷さんの思いを背負い、聖火を手に福島を走る。
(聞き手はスポーツ部・岩崎泰之)

 ―3月28日、須賀川を走ります。

 「地元の福岡県からも打診があったが、須賀川を走りたいと伝えた。両方走るわけにはいかない。昭和の五輪を一緒に走った円谷さんと共に、東京五輪・東京パラリンピックの成功、日本勢の活躍を願って走りたい」

 ―円谷さんとの思い出を聞かせてください。

 「一緒にマラソンを頑張ったかけがえのない友人。東京五輪の約2カ月前、札幌での合宿期間中に1万メートルの記録会で私も円谷さんも日本記録を出し、売店の縁台でビールを飲んで祝った。1週間に1本しか飲まない私がその日は4本飲んだ。毎年墓参するが、今も必ずビールを持って行くことにしている」
 「毎年、須賀川市である円谷幸吉メモリアルマラソンという大会に招待されている。墓参りはそのついでになるが、私と円谷さんの関係は注目されている。行く際にはお墓参りさせてもらおうと思っている」

 ―君原さんは東京、メキシコ、ミュンヘンと3大会連続出場を果たしました。

 「成績は8位でも東京が一番素晴らしい大会だった。国民が一つになって、待ち望んだ行事。参加できたことを誇りに思う」

 ―東京大会で記憶に残っていることは何ですか。

 「競技は心技体。体力は円谷さんより上だったが、精神力は未熟だった。五輪の1週間前から逗子(神奈川県)で最終調整している最中に、あるまじきことをしてしまった。五輪を楽しもうと東京に観戦に行ってしまった。レース前なのに、出場記念のスカーフに他の代表選手のサインを集めて回ったことも。スカーフは後にテレビ番組で100万円の価値があると鑑定されたけど、これは恥の宝物。本番で円谷さんは自己記録を上回り、私は下回った」
 「五輪はプレッシャーが全然違う。自国開催は励みになるが、プレッシャーは恐ろしいほどだ。私が五輪をエンジョイしようとしたのは、そのつらさから逃れる対策でもあった。あるまじきことで今もおわびしたいと思う」

 ―今大会のマラソンは札幌開催になりました。

 「東京の新しい国立競技場で見たかった。男子のマラソンを応援したかった。せっかくチケットも当選していたのに残念。マラソンは東京でやってほしかった。私自身のチケットの問題だけでなく、東京でやってほしかった。無念です。日本の選手には地の利を生かし、国民の声援を力に変えて、円谷さんのような結果を出してもらいたい」

 ―五輪初出場から56年がたった今も走り続けています。

 「中学2年で駅伝クラブに誘われ、足も速くなかったのに走り始めた。多くの人に出会い、励まされ、支えられた。感謝している。就職先がなかなか決まらなかった時も会社に採用してもらえた。マラソンを通して私の人生はどんどん良い方向へと進んでいった。競技の時は楽しめず、修行の連続だったけど、市民ランナーになってからは景色を楽しみ、鳥のさえずりを聞き、大地との触れ合いを楽しんでいる。身に付いた休養と栄養の取り方、トレーニングは健康を保つのに役立っている」
 「昨年11月に(市民ランニングの普及、発展に貢献した人物、団体などに贈られる)ランナーズ賞を頂いた。大変名誉な賞で満足しています。これまで走った距離は延べ18万キロ超、地球に換算すると4周半を超えている。ランナーズ文化の発展のためにこれからも走り続けたい」

 ―トレーニングが欠かせませんね。

 「今は1週間に3回ぐらい自宅周辺を走っている。年間に10大会ぐらいゲストとして招かれていて、いきなり走るのは不安だから。今は5キロも長く感じる。それだけ衰えてきている証拠。年とは争えない。だが無念に感じず、仕方がないと思っている。競技をしていた時の癖が出て頑張る時もあるが、私はもうタイムも順位も気にしません」

 ―フルマラソンはもう走らないのですか。

 「3回も五輪に出たし、未練はないと1973年に競技を退いた。五輪選手は責任感がつらい。それで市民ランナーに切り替えた。最後のマラソンは75歳で走った2016年のボストンマラソン。これまでフルマラソンを74回走って、年と同じ回数の75回目も走りたかったが、ボストンマラソンの達成感から走ろうという目標を持てなくなった。私のマラソンは74回で終わった。もう意欲がない。もう思い残すことはありません」

 ―いよいよ2度目の東京五輪です。

 「前回は五輪が東京を変えた。今度は世界を変える大会になると期待したい」


2020年01月20日月曜日


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