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「それぞれの五輪」杉浦正則さんに聞く【インタビュー全文掲載】

「自国開催を力に」と語る杉浦さん=東京都の日本生命丸の内ビル
「自国開催を力に」と語る杉浦さん=東京都の日本生命丸の内ビル
「自国開催を力に」と語る杉浦さん=東京都の日本生命丸の内ビル

 夏に迫った東京五輪。かつて大舞台を彩ってきた人たちも期待に胸を躍らせている。それぞれの「五輪」を大いに語ってもらった(2020年1月に河北新報紙面とオンラインニュースに公開したインタビューの全文を掲載します)。

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[杉浦 正則(すぎうら・まさのり)]右の本格派投手。同志社大でエースとして活躍後、1991年日本生命に入社。92年バルセロナ五輪で銅、96年アトランタ五輪で銀メダル獲得に貢献した。2000年シドニー五輪後に引退。現在は日本生命保険の首都圏法人営業第一部法人部長。和歌山県出身。

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 大金より夢を選んだ男は3度日の丸を背負って五輪のマウンドに立った。アマチュア選手しか参加できなかった時代、杉浦正則さん(51)はプロ野球からの誘いを断り続け、日本代表のエースとしてチームを引っ張った。「ミスターアマ野球」が見てきた五輪の風景は。
(聞き手はスポーツ部・剣持雄治)

 ―1992年バルセロナ五輪から3大会連続出場。「ミスターアマ野球」の称号はファンに広く知られています。

 「野球は84年ロサンゼルス、88年ソウル大会は公開競技で、バルセロナから正式競技になりました。その時期に選手として活動できたことは幸せだったと思います」

 ―一番の思い出は。

 「96年アトランタ大会のキューバとの決勝戦。当時アマチュア最強と言われたキューバに勝って金メダルを取るのがずっと夢でした。マウンドに立った時はうれしくて、わくわくしました。残念ながら打たれてしまいましたけどね。今思えば、もっと緊張感があってもよかった」

 ―準決勝に続く先発登板でしたね。

 「疲労は残っていましたが、投げられることがうれしかった。決勝当日の朝の散歩で、川島勝司監督から『行けるか』と聞かれ、行けますと答えた。そこで行けませんって言う選手はいないですよね。でも、まさか先発とは思わなかった」

 ―2000年シドニー五輪からプロの参加が認められました。

 「プロが入って来るのは構わないけど、選手がなかなか決まりませんでした。けがをした時の補償の問題もあり、チームづくりが進まずいらいらしたことを覚えています。僕らアマチュアは『死ぬ気で行ってるんですよ』と言いたかった。それが五輪です」

 ―シドニー大会はメンバー争いも激烈でした。

 「元バドミントン選手の陣内貴美子さんが取材に来た時『メンバーに選ばれるように頑張ります』と答えたら怒られたことを覚えています。『2大会も出ているんだから、次も出るものだと思って取り組まないといけないんじゃないの』って。同じオリンピアンとして重みのある一言でした」

 ―3大会で代表。試合に懸ける思いも違いますよね。

 「都市対抗野球大会や社会人日本選手権であれば、負けても来年頑張ろうと思います。五輪は4年後。この期間は長い。故障で出られない可能性もありますからね。準備万端で試合に臨んでも、とんでもないプレーをする選手がいる。それは仕方のないことなんですよ。4年間の重圧、いろんな人の思いを背負うんですから。大会後、燃え尽き症候群みたいになってしまう気持ちも分かりますね。私もふ抜け状態。練習には出てもなんとなく一日が終わってしまう経験をしました」

 ―今回は自国開催です。

 「当然野球は注目を集めますし、相当な重圧の中での戦いになります。それだけにプラス思考の選手がいい成績を収める。プレッシャーから逃げては駄目。よく『五輪を楽しみます』と話す選手がいますよね。僕の中ではプレッシャーから逃げていると思う。日本が初めて8強入りした昨年のラグビー・ワールドカップが成功のヒントになると思います。自国開催をうまく力に変えたように見えました」

 ―アトランタ大会はアウェー感がすごかったでしょうね。

 「準決勝で米国と対戦しました。チャンスの時の雰囲気はすごかった。観客が『U、S、A』と合唱しながら足踏みをする。テンポが合うとすごい迫力でしたね」

 ―注目を集める試合でプラス思考を保つのはなかなか難しいですね。

 「ポジティブって考え方は一つじゃないんですよね。例えば無死一塁。守備側は併殺か1死一塁にしたがるが、1死二塁でもいい、三塁でもいい、走者を本塁に返さなければいいと考えることだってできます。10安打完封、最高みたいなね。私も経験ありましたよ。打たれるのは当たり前。それなら点をやらない投手になればいいんです」

 ―杉浦さん、控えめに見えますが、マウンドでは別人になるんですか。

 「マウンドに立つと偉そうって言われますよ。社会人1年目、捕手が出すサインを腰に手を当てて見ていましたから。打者に当てなきゃいいんだろ、という雰囲気もあったと思います。それも投球術です」

 ―五輪にまつわる思い出教えてください。

 「バルセロナ大会の予選が北京でありました。日本、オーストラリア、韓国、台湾の4チームのうち上位2チームが五輪の出場権を得ます。予選前からオーストラリア以外の実質3チームによる争いとみられていました。日本は初戦でオーストラリアにまさかの敗戦。後がなくなった2戦目の韓国戦に先発したのが僕でした。首脳陣から『とりあえず三回まで抑えろ』と言われ、次に『五回まで』と。五回を終えたら『あと1イニングずつ抑えろ』と伝えられました。そんな試合に限ってつらいんですよ。日本が一回に1点取って1―0でずっと進みました。八回に味方の3ランが出て、気持ちがオフになったのか、最終回に1点取られました。あの試合だけはずっと気持ちがオンの状態。どう抑えたか覚えていませんね」

 ―二つの五輪メダルを持つサラリーマンはそうそういません。今、メダルはどうしていますか。

 「普段は自宅の本棚にしまっていますが、仕事や講演で使うことがあります。見るだけでは五輪のメダルのすごさは分からない。皆さんの首に掛けた時の笑顔、表情がうれしいし、すごく幸せに感じます。懇親会などお酒の場で見てもらうと、盛り上がって関係も深まるんですよね。3位と4位の差って、とても大きいんだなっていつも思います」

 ―杉浦さんがプロのマウンドに立つ姿を想像してしまいます。

 「皆さんによく聞かれます。プロで活躍すれば覚えてもらえますけど、そうでなかったら記憶に残らないですよね。気持ちが五分五分だったらプロに行っていたと思うし、最初に出た五輪で金メダルを取っていたらプロに行ったかもしれませんね」
 「でも、自分が決めて進んだ道が正しいと思っています。営業では、相手が名刺を見て、私の顔を見てリアクションを取ることがあったり、『日本生命に杉浦っていう投手いたよね?』と聞かれれば『それ、私です』って答えます。自分の今までの活動が営業で役に立っているんですよ。プロに行かなくてよかったと思うことがあるんです」


2020年01月20日月曜日


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