宮城のニュース

75年前の記憶、今年は語れず 仙台空襲の語り部活動取りやめ

資料を見ながら仙台空襲を振り返る弘子さん(左)と姉のあさ子さん=仙台市戦災復興記念館

 1945年の仙台空襲の体験者がもどかしさを募らせている。新型コロナウイルスの影響で、仙台市が継続してきた語り継ぐ催しが取りやめになったためだ。1399人が犠牲となった空襲から10日で75年。語り部たちは「伝承の再開」を期待しながら節目の日を迎える。
 取りやめになったのは青葉区の市戦災復興記念館で継続してきた語り部活動。例年、7月に開かれる会期約2週間の「戦災復興展」の一環で、「仙台の戦災・復興と平和を語り継ぐ会」のメンバーが土・日曜、空襲体験を来館者に伝えてきた。
 青葉区まちづくり推進課によると、節目の今年は語り部による講演をはじめとした企画を練ったが、新型コロナの感染拡大を受け、規模縮小を決定。代わりに10日スタートの復興展を8月31日まで長期開催するという。
 ◇
 仙台空襲の語り部の一人、佐々木あさ子さん(86)=仙台市泉区=は2017年、妹の菊田弘子さん(83)=青葉区=と語り継ぐ会に入った。市戦災復興記念館で伝えている空襲体験は今も鮮明だ。
 木町通小5年だった1945年7月10日未明。市中心部の二日町(青葉区)の自宅で寝ていたあさ子さんは、空襲警報で目が覚めた。防空頭巾をかぶって表へ。
 「あさちゃん、逃げるよ」。姉の畠山まつ子さん(89)=宮城野区=に声を掛けられた。暗闇のはずが昼のように明るい。米軍の焼夷(しょうい)弾のためとは分からなかったが、「ただ事ではない」と感じた。
 北四番丁通で、姉は物を持ち出そうと家に戻った。
 近くの倉庫に火が回った。「怖い」。姉を待つこともできず、避難する一団の最後尾に加わった。夜通し歩いて逃げた先は、泉ケ岳に近い根白石地区(泉区)。「無我夢中だった」
 弘子さんは当時、七北田地区(同)に疎開していた。仙台方面の空が真っ赤に染まっていた。驚いたのは夜が明けてから。「あさ子とはぐれた」。まつ子さんが泣きながら駆け込んできた。
 結局、姉妹が再会できたのは数日後。自宅は焼け落ちていた。

 あさ子さんと弘子さんは「罪のない人がひどい目に遭い、大勢が亡くなった事実を語り継ぐのが使命」と言う。「空襲体験者がどんどんいなくなっている。何とか後世に記憶を残したい」。75年の歳月と新型コロナウイルスという二つの壁を前に、2人は力を込めた。


関連ページ: 宮城 社会 新型コロナ

2020年07月09日木曜日


先頭に戻る