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雫石事故五十回忌(1) 突然の惨事、町挙げて支援

自衛隊機と衝突し、墜落した全日空機の残骸。傍らには乗客の遺品が散らばり、事故の悲惨さを物語る=1971年7月30日、岩手県雫石町

 灼(や)けるように暑い夏の日だった、とあの日を知る町の誰もが口をそろえる。
 1971年7月30日午後2時すぎ。岩手県雫石町。
 「ドドーン」
 突然地鳴りのような爆発音が響き、当時、西山中2年で校庭にいた猿子恵久町長(63)は空を見上げた。
 雲一つない梅雨明け当日の青空。二つの機体が瞬く間に急降下し、山の中に消えた。

 北は八幡平市、南は矢巾町まで聞こえたという爆音に、町内は騒然となった。「岩手山が噴火したのか」「飛行機が花巻さ落ちたって」「いや雫石らしいぞ」
 現場近くで草刈りをしていた高橋サキさん(78)は、飛行機が煙を吐きながら目の前の山に落ちる瞬間を見ていた。
 墜落と同時に、太陽の光を受けてコバルト色に輝く何かの破片が舞い散った。「ヒラヒラと、とてもきれいだった」
 破片は空中分解した全日空旅客機の一部だった。町の上空で自衛隊機と衝突し、全日空機は盛岡市境に程近い西安庭地区の山中に、自衛隊機は田んぼに墜落したと程なく判明する。
 全日空機には、乗員乗客162人が乗っていた。
 「大事故だ」。地元消防団に入ったばかりの山崎正美さん(74)は真っ先に墜落現場へ向かった。ポンプ車で林道を走り、目にした光景が今も忘れられない。
 林道の先には遺体が「ぼたぼたと落ちていた」。車を降りて見回すと、地面にめり込んだり、手足がバラバラになったりした亡きがらもあった。落下途中でぶつかったのか、木は枝が折れ、稲わらのように裂けている。
 「とてもわれわれの手に負えない」。一目で生存者はいないと確信した。

 町はすぐに対策本部を設置し、現場近くの安庭小を拠点に定めた。捜索隊が収容した遺体を次々と講堂に運び込む。じきに講堂だけでは足りなくなり、教室も使われた。
 遺体は医師が縫い合わせた後、看護師が体を拭き、ガーゼや毛布で包んでからひつぎに納めた。町立雫石病院の元看護師高橋君子さん(72)は「手足の長さが違ったり、余ったりした遺体もあった」と明かす。
 降って湧いたような大惨事に、のどかな農村はパニック状態に陥った。
 消防団の男性は捜索に駆り出され、婦人部の女性は駆け付けた遺族のためにおにぎりを炊き出した。町を挙げての支援は、遺体の引き渡しが一段落するまで三日三晩続いたという。
 安庭小は75年、御所ダム建設のため移転。墜落現場の山頂は同年10月、「慰霊の森」として整備された。
 事故から半世紀近くがたち、慰霊の森はうっそうとした木々に覆われる。この場所を訪れる以外に、町で当時を知る由はない。
 それでも毎年7月中旬を過ぎると、誰からともなく「慰霊祭もうすぐだな」と声を掛け合う。
 慰霊の森管理人高橋アサヨさん(73)は言う。「みんな頭のどこかで常にあの事故のことを思っている」
 ◇
 全日空機と自衛隊機が衝突し、162人が犠牲となった「雫石事故」が7月30日、五十回忌を迎えた。惨劇の現場となった雫石町は事故直後から今日まで遺族らを支え続け、新たな絆も生まれている。遺族、全日空、自衛隊、そして町にとっての49年間をたどった。(盛岡総局・浦響子)

[雫石事故]1971年7月30日、千歳発羽田行きの全日空ボーイング727旅客機と訓練中の自衛隊F86F戦闘機が岩手県雫石町の上空で衝突し、墜落した。全日空機の乗客乗員計162人全員が死亡、自衛隊機の乗員1人は脱出して無事だった。当時、民間航空機の事故としては世界最大の犠牲者を出した。


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2020年08月04日火曜日


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