岩手のニュース

雫石事故五十回忌(2) 愛する肉親失い人生一変

事故の犠牲となった弟文隆さんの遺影を見つめる小山さん。五十回忌の30日には、仏壇に好物のすしを供えた=静岡県富士市

 全日空機と自衛隊機が衝突し、162人が犠牲となった「雫石事故」が7月30日、五十回忌を迎えた。惨劇の現場となった岩手県雫石町は事故直後から今日まで遺族らを支え続け、新たな絆も生まれている。遺族、全日空、自衛隊、そして町にとっての49年間をたどった。
(盛岡総局・浦響子)

 49年がたってなお、「事故がなければ」との思いが遺族の脳裏に去来する。
 1971年7月30日、雫石町上空で起きた全日空機と自衛隊機の衝突事故。犠牲になった全日空機の乗客乗員162人のうち125人は、静岡県富士市からの団体旅行客だった。
 同市の無職小山和夫さん(77)は四つ下の弟文隆さん=当時(25)=を亡くした。添乗員兼カメラマンとして北海道旅行に同行し、帰路で難に遭った。

 翌31日。事故現場に近い遺体安置所の安庭小には家族を案じる人々が駆け付けた。遺体が運ばれてくるたびにできる人だかり。自分の家族なら泣き崩れる。別人と分かれば、またぞろぞろと回り歩く。
 昼すぎに弟を見つけた。
 他の遺族はひつぎに手を入れて遺体の傷み具合を確認していたが、できなかった。端正だった顔が膨らんでいたのは覚えている。
 当時、東京の電機メーカーで開発職として働いていた小山さんに代わり、弟が家業の旅行業と写真屋を手伝っていた。
 事故後、体調を崩した母の願いを受け、小山さんは古里へ帰った。
 「突発的事故で肉親を失うと周りの人たちの人生もいや応なしに変えさせられる」。悲惨なニュースを見るたび、犠牲者の家族に思いをはせるようになった。
 心残りが一つある。
 事故の年の正月に帰省した際、久々に会った弟から「カラー写真の現像所を一緒に始めよう」と持ち掛けられた。白黒からの過渡期で全国に現像所ができていた。面白いと思った。だが半年後に事故が起き、話の続きはできなかった。
 「もし生まれ変わって、やり直すことができたら。弟がいたら、そっちの道を選ぶかもしれない」
 事故への恨みつらみはもう消えた。「自分もあっち(あの世)に近くなった」と冗談めかしつつ、時々考える。自分の思った通りの人生を送れていたなら、どうなっていただろう、と。

 「フボジコス スグカエレ」
 富士市の会社役員高田清太郎さん(68)の運命もまた、あの日来た1本の電報を境に一変した。
 当時は関東学院大1年生。下宿先の横浜から安庭小に向かい、事故翌日に父礼次さん=当時(46)=、母ちよじさん=同(42)=の亡きがらと対面した。
 同行した祖父は、息子の変わり果てた姿を見て涙を流していた。息子4人のうち3人が戦争で命を奪われ、今度はむごい事故で礼次さんを失った。
 その隣で、高田さんは「これから家をどうするか」とぼんやり考えた。
 弟2人はまだ中高生。突如、一家の大黒柱になった19歳の青年は父の仕事の残務処理に忙殺され、翌年には大学を中退した。
 「事故が起きてからは、とにかく必死だった」。26歳で会社を設立。飲食、不動産など事業を拡大させて成功を収め、家庭では3人の子どもを育て上げた。
 父の享年を優に超えた。「期せずして幸せの階段を踏み外してしまうこともある。でも、また階段の上り口に戻っていける人生にすればいいだけだ」。やっと、こう思えるようになった。

[雫石事故]1971年7月30日、千歳発羽田行きの全日空ボーイング727旅客機と訓練中の自衛隊F86F戦闘機が岩手県雫石町の上空で衝突し、墜落した。全日空機の乗客乗員計162人全員が死亡、自衛隊機の乗員1人は脱出して無事だった。当時、民間航空機の事故としては世界最大の犠牲者を出した。


関連ページ: 岩手 社会

2020年07月31日金曜日


先頭に戻る