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核廃絶と原発廃止を 被爆2世の多賀城・小林さん 父の記憶継承、訴え続ける

街角でマイクを握り、原発再稼働の反対を訴える被爆2世の小林さん=5日、仙台市青葉区
東南アジアの戦地で撮影された喜久男さんの写真=1942年1月(小林さん提供)

 米国が広島に原爆を投下してから6日で75年がたった。宮城県多賀城市の小林立雄さん(71)は爆心地周辺で救護活動に当たった父親を持ち、日本科学者会議(東京)の一員として原発問題に取り組む。「原爆と原発はコインの裏表の関係にある」と考え、核兵器廃絶と原発廃止を強く求める。

 「私はヒロシマの被爆2世です」
 5日、仙台市青葉区一番町の街頭。炎天下でマイクを握った小林さんは出自を明かし、東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)の再稼働反対を訴えた。
 「原発は元々、電気を作るためにできたものではなく、核兵器の原料となるプルトニウムを生み出す。再稼働は極めて危険だ」
 75年前の8月6日。父親の喜久男さんは当時23歳で、広島・江田島の海軍兵学校教員だった。翌7日ごろから1週間ほど広島市内に入り、数多くの遺体を素手で回収した。亡きがらは川の中や家屋跡、防空壕(ごう)などにあり、炭化したり、片面だけが焦げたりしていた。
 小林さんは1948年、次男として静岡県に生まれた。自然科学を好み、学習院大と東北大大学院で物理学を研究。アイゼンハワー米大統領の演説を機に広がった「原子力の平和利用」の考え方に疑念を抱き、在学中から女川原発の建設に反対する集会に参加するようになった。病院職員を経て多賀城市議を務める間も、原発への懸念を抱き続けた。
 戦後60年の2005年8月、転機が訪れる。小林さんは広島であった原水爆禁止世界大会に参加し、被爆者の女性から告げられた。
 「爆心地周辺で活動したお父さんは『入市被爆』したことになる。あなたは被爆2世だよ」
 「俺も原爆の当事者なのか」。小林さんは大きな衝撃を受けるとともに、父の戦争体験をつぶさに記録することを決意した。
 数年をかけ、当時の記憶を話してくれた喜久男さん。証言や資料を基に被爆者健康手帳を申請していた08年9月、不慮の事故で亡くなる。87歳だった。
 手帳は交付されなかったものの、喜久男さんの名前は広島市の原爆死没者名簿に登載され、慰霊碑に納められた。「戦争は人間のすることじゃない」。父の残した言葉は、息子の心に深く刻まれている。
 東京電力福島第1原発事故から9年5カ月。国の審査に合格した女川2号機を巡り、宮城県や女川町、石巻市は再稼働の前提となる同意手続きを本格化させる。
 政府が掲げる核燃料サイクルは、全国の原発で出た使用済み核燃料からプルトニウムを抽出することを意味する。再利用の実現はハードルが高い。高レベル放射性廃棄物の最終処分地も決まっていない。
 「女川原発で事故が起きれば、取り返しのつかない事態になる。科学技術の到達点と限界を学び、それを判断の礎にすべきだ」
 戦後75年の夏。小林さんは呼び掛ける。


関連ページ: 宮城 社会 戦後75年

2020年08月07日金曜日


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