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戦禍の悲劇、語り手少なく 釜石艦砲射撃75年 風化を懸念「資料活用や遺構保存を」

企画展で初めて展示されたふすま。砲弾の破片が突き破った跡が残る
艦砲射撃の恐ろしさを語る佐野さん=釜石市

 岩手県釜石市は太平洋戦争末期の1945年7月14日と8月9日、2度の艦砲射撃を受け、市街地が壊滅した。少なくとも773人の命と多くの財産を失った東北最大規模の戦災から75年。市郷土資料館で毎年恒例の企画展「釜石の艦砲射撃」が8月31日まで開かれている。戦禍の悲劇を語れる人は少なくなり、歴史の忘却が懸念される。
 企画展では写真や解説パネル、被災体験を描いた紙芝居など約60点が展示されている。初展示となったのは、砲弾の破片に突き破られた大きな跡が残る木製のふすま。今年3月に解体された同市桜木町の民家にあったもので、同館に寄贈された。傍らには別の場所で見つかった重くとがった破片が並べられている。
 釜石の艦砲射撃は1度目は米軍、2度目は米英軍が実施した。当時の日本製鉄釜石製鉄所を主目標に計5346発以上が発射され、市街地ほぼ全域が焦土と化した。市によると、これまで確定した犠牲者は773人。約1050人が亡くなったとの民間調査もある。
 東北では仙台空襲(犠牲者1399人)や青森空襲(同1018人)と並ぶ最大規模の戦災。市民団体からは市の戦災伝承の在り方が不十分だとして風化を危ぶむ声が出ている。
 7月14日には釜石市平和委員会など14団体が、戦災資料館の整備や郷土資料館の充実、追悼碑の建立などを市に要請した。平和委の岩鼻美奈子会長は「甚大な被害を具体的にイメージできる伝承の形が取られていない。資料の収集・活用や戦災遺構の保存も進んでいない」と指摘する。
 郷土資料館には3人の任期付き職員が勤務するが、学芸員はいない。艦砲射撃に関する常設展の内容は長年ほとんど変わらず、企画展以外の取り組みは行われていないという。
 平和委の前会長前川慧一さん(82)は「明治三陸、昭和三陸、東日本大震災の大津波と2度の艦砲射撃。度重なる大災害を乗り越えて今の釜石がある。天災だけではなく、戦争という人災もきちんと後世に伝えていかなければならない」と話した。

◎火の海逃れ裏山へ 14歳で被災、酒店経営の佐野さん

 旧制釜石中2年の14歳の時に艦砲射撃を経験した釜石市の酒店経営佐野健司さん(89)に当時の状況を聞いた。
(聞き手は釜石支局・中島剛)

 今も暮らす大町の同じ場所に自宅と店があった。7月14日、警報が鳴ったので庭の防空壕(ごう)に母と店員の3人で避難した。ドーン、バーン。とんでもない音がする。港の高射砲部隊がB29を撃っているな、頑張っているな、と初めは安心していた。
 そのうちパチパチと聞こえ始めた。雨かと顔を出すと庭の池に波紋がない。振り返ると火の海が家に迫っていた。慌てて壕を出た。
 外を行けば戦闘機の機銃掃射を受けて虫のように殺される。頭に金だらいや座布団をかぶり、近所の家々の中を土足で走って、裏山の岩壁の防空壕に向かった。そこにも火が迫り、裏山をよじ登って難を逃れた。
 家は焼けていた。配給所だったので貴重品の砂糖が真っ黒に焦げたのが何とも悔しかった。父は体を壊して7、8キロ離れた内陸の松倉に疎開していた。徒歩で向かう道中は生き地獄だった。街は燃え、多くの遺体があった。
 父とは互いに生きているとは思っていなかったから、再会した時は抱き合って泣いた。今でも思い出すと涙が出てくる。
 空襲は飛行機が通過すれば爆弾は落ちてこないが、艦砲はいつ終わるか分からない。どこから砲弾が来るか分からない怖さがある。
 2歳になる少し前、昭和三陸津波で家を流された。母の乳にかみついて震えていた記憶がかすかにある。東日本大震災でも家を失った。わたしの人生は災害ばかりだ。ただ、戦争は人災。人の手で防げる。絶対にしてはならない。


関連ページ: 岩手 社会 戦後75年

2020年07月20日月曜日


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