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旧満州で一変した暮らし 葛藤と郷愁抱いた38年 漫画家山内ジョージさん、日中交流に尽くす

終戦直後の大連で、母ゆたかさんが売っていたたばこをソ連兵が巻き上げる場面を描いた絵画を紹介する山内さん
山内さん一家が住んでいた中国・大連市内の旧官舎=1985年3月(山内さん撮影)

 「侵略した側の国民として葛藤があった」。生まれ故郷の中国・大連の地を再び踏むまでに、40年近い時間を要した。宮城県登米市出身の漫画家山内ジョージさん(79)=東京都江戸川区=は、旧満州(中国東北部)から引き揚げた70年以上前の記憶をたどり「世界の人々が相互に尊重し合って交流できる世の中が続いてほしい」と願う。

 山内さんは1940年11月、日本の統治下にあった旧満州の大連で生まれた。本名は紀之。警察官だった父久男さんが名付けた。45年8月15日の敗戦直後、当時35歳だった久男さんは大連を占領した旧ソ連軍によってシベリアへ送られ、帰らぬ人となった。
 日本人公務員専用の広い官舎に、両親ときょうだいの6人で住んでいた山内さん一家の暮らしは、敗戦の日を境に一変した。官舎を追い出され、ソ連兵におびえながら集会所を転々とする生活が約1年半続いた。
 大連の港を出る引き揚げ船に乗ったのは47年2月。4日間ほどで長崎県の佐世保港が見えると、当時32歳だった母ゆたかさんが「内地だ」と叫び泣いた姿を山内さんは忘れられない。
 列車を乗り継いで父の実家がある登米市内の駅に着くと、栄養失調で痩せ細った5人をたくさんの親戚が大喜びで迎えてくれた。
 その後、漫画家としての人生を歩む中で心の片隅にずっと、若くして亡くなった父の無念さを思う気持ちと「中国人に迷惑を掛けた」という引け目、大連への郷愁があった。
 転機は40代半ばに訪れる。都内の中華料理店で、山内さんの胸の内を知った中国大使館の男性書記官が優しくこう話した。「あなたも日本の軍国主義の被害者ですよ。私たちは日本人を憎んでいない」
 その言葉に背中を押された山内さんは85年3月、38年ぶりに大連を再訪。以来、ちばてつやさん(81)や故赤塚不二夫さんら引き揚げ経験のある漫画家仲間と訪中を重ね、日中文化交流事業に深く携わってきた。
 山内さんや赤塚さんら人気漫画家が若い頃に暮らした豊島区のアパートが7月、38年ぶりに区立トキワ荘マンガミュージアムとして再現された。
 新型コロナウイルスの収束を祈りつつ、山内さんは「日本の漫画は戦後、世界中で愛されるようになった。中国人やロシア人にもトキワ荘を訪れてもらいたい。国籍の違いで他者を見下すような時代に戻してはいけない」と力を込めた。

[旧満州からの引き揚げ者]世界的不況の中、食糧不足を背景に政府は1936年、満州開拓移民推進計画を策定し、移住を推奨した。旧厚生省の「援護五十年史」によると45年の終戦後、海外から引き揚げた日本の民間人は約318万人。うち、満州からは約120万人に上る。特に内陸農村部に入植した日本人の帰還は困難を極め、引き揚げ船の出る沿岸都市にたどり着くまでに10万人以上が死亡し、数千人が残留孤児になったとされる。


関連ページ: 宮城 社会 戦後75年

2020年08月13日木曜日


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