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死の淵から2度気力で生還 栗原の元海軍技工士・渋谷さん、平和の意義問い掛け

海軍第3気象隊の技工士だった当時の写真を見る渋谷さん
ベトナム・サイゴンで同僚と写真に収まる渋谷さん(中央)=1945年3月

 太平洋戦争で海軍第3気象隊の技工士として南方戦線に赴いた栗原市一迫の渋谷林平さん(93)は、死を2度覚悟した。終戦から15日で75年。戦地の現実を知る数少ない生き残りの一人として、戦争の意味を今の世代に問い掛ける。

 最初に死を覚悟したのは1944年7月、17歳の時。南方戦線に向かう中央気象台観測船「凌風丸」の中だった。
 43年12月末に旧制築館中を仮卒業となり、旧海軍で海洋測量や気象観測などを担う水路部に入った。周りも16歳から18歳まで同年代ばかり。座学、実習の研修を半年で終え、同期生100人と南方に向かった。
 台湾の高雄を28隻の船団で出港した3日後、陸軍兵の乗った僚船1隻に敵潜水艦の魚雷2発が命中。水柱が高々と上がり、程なく船尾から海中に沈んだ。
 他船が現場を離れる中、凌風丸など4隻が残り、海に投げ出された兵隊を救助した。凌風丸には100人以上が引き揚げられた。
 残った4隻はフィリピンのマニラを目指したが、再び潜水艦の攻撃に遭い2隻が沈没した。爆雷を海に投げ入れ、必死に逃げる凌風丸。爆音が響く度、壁面のさびがぱらぱら落ちた。
 船倉にいた渋谷さんは不思議と落ち着いていたという。「1発当たれば終わり。腹をくくったら眠れた」。その後に海が荒れたことが幸いし、凌風丸は追尾を逃れマニラにたどり着いた。
 次に死地に追い込まれたのは終戦後の46年2月だった。ベトナムのサイゴン(現ホーチミン)北部の捕虜収容所でマラリアにかかり、1カ月後にはアメーバ赤痢を患った。
 1日50〜60回、便意を催し、みるみる体力を奪われた。「夢にさんずの川とおやじが現れた。それを見て、死んでいられないと気力を振り絞った」と振り返る。
 体力が回復した後、46年5月に復員。家業の菓子製造店を継ぎ、店を閉めた後は旧一迫町役場で働いた。
 2008年、自ら発起人となり、地元の戦争体験者と文集「あの日あの時 昭和の青春」を発行した。「戦争を経験した人間でも、あの時の苦しさの記憶が薄れていく」。子、孫の世代に記録を残そうと呼び掛けた。
 それから12年がたち、地元の仲間は減った。サイゴンから生還した7人の同期も、皆この世を去った。
 いよいよ戦争を知る同士は少なくなった。「今の人たちは戦争の話にどれほど関心があるだろうか」。南方の戦地で生死の境を2度さまよった渋谷さんは現状に危機感を抱く。


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2020年08月15日土曜日


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