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国策のつけ払うのは庶民 旧満州引き揚げ者の飛田さん、原発事故で福島・浪江から水戸へ

避難先の自宅の畑に実ったブドウの手入れをする飛田さん。「子どもの頃、果物で腹いっぱいになるのが夢だった」=水戸市ちとせ1丁目

 「戦争」と「原発」という二つの国策に人生を翻弄(ほんろう)された人がいる。死線をさまよって旧満州(中国東北部)から引き揚げ、東京電力福島第1原発事故でも避難を強いられた住民だ。水戸市の飛田実さん(84)もその一人。「国策のつけを払わされるのはいつも末端のわれわれ」と語る。

 飛田さんは2011年3月15日、福島県浪江町下津島にある自宅を離れた。原発事故によって放出された放射性物質が津島地区まで運ばれ、高線量エリアになったことをインターネットで知った。
 不安を抱えながら内陸部に向かう。「また逃げなきゃならんのか」。車中、終戦直後の光景が脳裏をよぎった。
 1945年8月15日、入植した中国吉林省の数十戸の集落で玉音放送を聞いた。当時9歳。解放を喜んだ中国人が暴徒化し、その日の夕方に一家は馬車で集落を離れた。
 途中、こん棒を持った中国人集団に襲われるが、何とか逃れた。道端には空腹で歩けなくなった日本人が横たわっていた。自分より1、2歳下の子どもが「母ちゃん、母ちゃん」と泣きじゃくる。何もできやしなかった。自分のことで精いっぱいだった。
 逃避行のさなか、記憶に残っているのは父親が買ってくれたトマトがおいしかったこと。「空腹続きで胃が小さくなったのか、一つだけで十分だった」
 もう一つは、避難先の体育館で多くの人が寒さと飢えで亡くなったこと。いてついた地面は硬くて掘り起こせず、遺体は屋外に重ねて安置された。
 46年7月に帰国。父親の実家がある田村市に身を寄せ、47年に旧津島村の国有林開拓地に入植した。一家に払い下げられたのは辺地の約3ヘクタール。父親が木を切って畑を耕したが、耕作に不向きだったらしく麦や大根しか栽培できなかった。
 「満州人」「開拓」と中傷されながら必死に戦後を生き抜いた。地元の開拓農協職員や会社社長などを経て60歳でリタイア。果物を腹いっぱい食べたかった夢を果たそうと、開拓地でリンゴやモモなどの栽培に取り組んだ。近所でも好評だったが、原発事故が全てを奪い去った。
 津島地区は全域が帰還困難区域となり、自宅のあった下津島は特定復興再生拠点区域(復興拠点)になった。ただ山奥の果樹畑は除染が行われず、自由に立ち入れる見通しは立たない。
 飛田さんの目に戦争と原発は相似形に映る。国は戦時中、敗色濃厚でも「神風が吹くから負けない」と言い張った。原発も「安全神話」にすがり、電力会社が建設をごり押しした。
 神風は吹かないし、原発も安全でなかった。それなのに国は集団的自衛権の行使を認める安全保障関連法を成立させ、原発は再稼働を進める。「いったい何を考えているのか。国は被災者と引き揚げ者の悲惨な現実に目を向けてほしい」


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2020年08月16日日曜日


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