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戦災と震災、ある女性の証言(上)火の海の仙台 1人逃げまどう

仙台空襲の体験を胸に、洋裁の仕事を続ける石川さん=東京都内

 東京都の洋裁師石川(旧姓橋本)暁子さん(85)は1945年の仙台空襲で被災した。当時は片平丁小5年生。その後仙台を離れたが、「あの日」の出来事は東日本大震災や相次ぐ自然災害の被災者の苦難と重なるという。記憶をたどってもらい、思いを聞いた。
(聞き手は会津若松支局・玉應雅史)
◇     
 あの日、昭和20年7月10日の未明でした。私が住んでいた所は当時の住所で仙台市南町67番地。家の前は電車が走っておりました。
 父は洋裁業で、私が2歳の時に東京から仙台に引っ越し、「橋本洋裁店」を営んでいました。戦争が激しくなり、花嫁修業で洋裁を習いに通って来たり、住み込みでいたりした女性たちは軍事工場に働きに行くようになり、店に誰もいなくなった頃でした。
 兄は宮城県工業学校(現宮城工高)に入学しましたが、学徒動員で家におりませんでした。
 夜、空襲警報のサイレンが鳴り響きました。父と母が私たち子ども4人を連れて、近くの生命保険会社のビルの地下にあった防空壕(ごう)に行きました。
 そこには町内の人が集合していて、警報が解除されるのを待っていました。頭上で爆弾の音が激しくなってきました。皆びっくりしながら「ここも危ないから出よう」と、家族ごとに出て行くことになりました。
 私も大人の後に続いて外に出て、走って走って逃げました。ふと後ろを見たら誰もいません。家族とはぐれて不安でしたが、引き返すこともできず人について走り続けました。辺りは火の海で、馬も火を避けながら走っていました。
 たどり着いた場所は広瀬川の土手。真っ暗闇で、皆座り込んでいて気が付くと爆音も聞こえなくなっていました。ただただ夜が明けるのを待っておりました。
 夜が明けると大人たちが「帰るよ」と皆に声を掛け、私はまた人の後について帰って来ました。帰り道はあちこちで煙がくすぶっていました。焼け野原と化し、何も考えることができません。家族はどうなったのか、それだけが心配でした。
 途中、道の真ん中に掘ってあった防火水槽の中に犬が死んでいるのを見ました。防空壕があったビルは何階建てか覚えていませんが、1、2階しか残っていませんでした。でも、防空壕は無事でした。
 家族は父の判断で逃げるのをやめ、防空壕にとどまったようです。母が妊娠しておなかが大きかったからです。結果、家族全員生きることができ、本当に良かったと心からほっとしたことを今でも覚えています。
 命は助かりましたが、着の身着のまま避難し、自宅をはじめ何もかも一夜にして失いました。


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2020年08月15日土曜日


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