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戦災と震災、ある女性の証言(下)大槌の被災者に共感 心つなぐ

60年連れ添った夫を亡くし、50年以上生きているインコと暮らす石川さん=東京都内

 1945年7月10日未明の仙台空襲で仙台市南町(現青葉区)の自宅など全てを失った洋裁師石川(旧姓橋本)暁子さん(85)=東京都=は防空壕(ごう)で何日か過ごし、父の姉がいる秋田市へ行くことになった。

 父は、私と弟が通っていた片平丁小の転校などの手続きで忙しそうでした。そんな時、町内の北村様の家のお風呂が焼け跡にしっかり残っていて、誰かが沸かしてくれて代わる代わる入りました。
 真っ暗闇の中、何日かぶりにお風呂に入りながら眺めたお月さまは涼しい顔をしていて、見守ってくれているようでした。今でも心に焼き付いております。
 仙台駅から秋田へ行く列車は満員で、私たち一家は窓から詰め込まれて乗りました。秋田では伯母が所有する借家で、やっと落ち着いて生活できました。市内の築山小に転校し、何日かして8月15日の終戦を迎えました。
 日本が負けて子ども心に複雑でしたが、どうすることもできませんでした。その後、兄が学徒動員から帰って来て、母が8月26日に妹を出産。少しずつにぎやかになりました。
 ただ、当時の秋田で洋服を注文する人は少なく、父が営む洋裁業で暮らすのは大変でした。父は子どもの前で愚痴は言いませんでしたが、しばらくして東京に戻ることになりました。
 戦後、私は東京・銀座の百貨店で働き、結婚。自宅で洋裁の仕事をしてきました。そんな時に起きた東日本大震災の津波で全てをなくした岩手県大槌町の越田ミサさん(81)の惨状を新聞記事で知りました。
 記事を読み、仙台空襲で被災した自分の記憶が重なったのです。一瞬にして全てを失う同じ思いをした人を助けたい、力になりたいと。震災直後でしたが大槌町役場に電話し、何とか越田さんと連絡を取ることができ、自作の洋服や身の回り品などを贈りました。
 それからは越田さんと度々電話で話し、何でも言い合える仲になりました。時には不安や悩みを打ち明けられることも。私はあっけらかんとした性格なので「細かいことは気にしないで」と励まします。
 戦争は二度とあってはなりません。苦難を乗り越えられたのは、周囲の人と励まし合ってきたからだと思います。私が大病を患った時も医師に励まされ、希望を捨てずにこられました。
 震災後も自然災害が全国で相次ぎ、その度に「私にできることはないか」という思いに駆られます。戦災も震災や災害もつらいことですが、人の心をつなぐこともあるのだと感じます。
 仙台は20年ほど前、戦後初めて訪れて自宅跡を探しましたが、面影はありませんでした。今は新型コロナウイルスの影響で外出もままなりませんが、もう一度訪ねたいです。


関連ページ: 宮城 社会 戦後75年

2020年08月16日日曜日


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