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空駆ける石巻の町工場(5) 大震災経験し針路定まる

東日本大震災で被害を受けたエヌエス機器の工場内の様子=2011年3月

 役員・従業員45人の小さな会社ながら、航空機部品の研磨を主力事業に成長させた宮城県石巻市のエヌエス機器。バブル崩壊、東日本大震災、新型コロナウイルス禍と難局が続く中、技術を文字通り磨いてきた町工場の航跡をたどる。
(報道部・高橋一樹)

 2011年3月11日午後2時46分。大きく長い揺れが東北沿岸を襲った。エヌエス機器の阿部秀敏社長(61)は、自宅から慌てて会社に戻った。
 「みんな早く外に!」
 従業員30人にけがはない。取引先から預かった大事な製品も、多くが台車に乗ったまま無事だった。しかし、築20年を超える工場と事務所棟は天井や壁が剥がれ、鉄骨は折れ、無数の亀裂が入っていた。
 「復旧には時間がかかりそうだ」。阿部社長は直感したが、東日本大震災の被害は想像以上だった。
 ほとんどの従業員の自宅が被災し、3軒は津波が直撃した。自動車のハーネスの組み立てを発注した内職先は沿岸部が多く、30軒のうち10軒が津波に遭った。

 震災から10日ほど後、一部の従業員で工場の片付けを始めた。4月には部品検査や組み立ての業務を再開。だが、会社はいくつもの悲哀を味わう。
 地道な営業で部品加工を受注し、震災当日に初出荷を迎えるはずだった大手海外メーカーとの取引がなくなった。日本法人の担当者から「原発事故の起きた福島の近くには、上の方針で仕事を出せなくなるかも」と聞かされていた。
 さらにショックだったのは、元請けの対応だった。
 震災から約2週間、やっと電気が通った頃。消防分団の一員として小学校の避難所で給水支援をしていた阿部社長の携帯電話が鳴る。元請けの工場長が怒鳴りつけてきた。
 「なんで連絡をよこさないんだ」「(内職先の)材料も作業台も必ず回収してこい」
 阿部社長の脳裏に、内職先の家々がよぎった。ある家は祭壇に子ども2人の写真が置いてあった。児童と教職員計84人が犠牲となった石巻市の旧大川小に通っていた孫だと後に知った。
 皆が大変な状況に、心配の言葉一つないのか−。創業以来の取引先だったが、最も大切な信頼関係が崩れ去ったと感じた。内職先を別の会社に引き継いだ1年後、ハーネス組み立て事業から手を引いた。

 一方で、つながりが強まった取引先もあった。
 エーケーダイカスト工業所(東京)の社員は震災直後、かき集めた食料を載せたワゴン車で駆け付けてくれた。甲斐宏社長(73)は石巻市前網浜のホヤ漁師の支援に関わるようになり、今も年2回ほど通う。
 エヌエス機器はプレハブでの操業を経て、12年10月に第2(約160平方メートル)、第3(約100平方メートル)各工場を銀行融資で新築。グループ化補助金で修復した事務所棟を第1工場とした。
 「磨き」に再生の活路を求め、新たに目指したのは「空」だった。


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2020年09月18日金曜日


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