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3.11 宮城県災対本部ドキュメント(1) 津波襲来、テレビで知る

大型モニターに映る港町の惨状にぼうぜんとする村井知事(中央)=2011年3月11日午後3時30分ごろ、宮城県庁

 大型モニターが映し出す港町の惨状に、指揮官が言葉を失った。気仙沼港に押し寄せた大津波が、桟橋をあっさりとのみ込む。
 宮城県庁4階の庁議室に現れた知事村井嘉浩は、テレビの生中継映像を見つめ、しばらく立ち尽くした。
 長く強烈な地震の揺れは収まったが、沿岸部は今まさに災害発生のただ中にある。助けたいが、打つ手がない。破壊されていく街を見ているしかなかった。
 2011年3月11日午後2時46分。東日本大震災の発生と同時に設置された県災害対策本部は、第1回本部会議を午後3時半に招集した。県幹部は一応の状況確認を済ませ、次々に庁議室に集まってきた。
 時間になると、村井は大きな円卓の真ん中に座った。高台への避難を呼び掛けるアナウンサーの声が、室内に大音量で流れる。騒然とする中、本部会議は始まった。
 「えー、ご覧のような状況でございます。テレビでありましたように、既に津波で大きな被害が出ているようであります」
 本部長の村井は動揺を隠し、言葉を絞り出した。
 情報が乏しかった。配布資料も各地の震度や大津波警報の発表を知らせる仙台管区気象台のメール文書だけ。何が起きたのか、全く分からない状態だった。
 「石巻の鮎川港で午後3時20分、3メートル30センチの第1波観測」。危機管理監小野寺好男が口頭で付け加えた。
 「まずは人命救助。ここに力を置いて、一人でも多く救うよう努力したい」
 村井は部局長に指示し、県警と自衛隊に協力を求めた。最初の本部会議はわずか4分40秒で終了した。
 「無事に逃げてほしいと祈ることしかできない自分が、本当に情けなかった」。村井は後に当時の心境をこう振り返った。
 第2回の本部会議は1時間半後の午後5時に始まった。
 「仙台港の防波堤に住民と警察官が取り残されているとの情報」「気仙沼は広範囲が水没したもよう」
 断片的な被害状況が入り始めたが、全容把握には程遠い。「連絡が取れない」「安否は不明」。情報収集は混乱を極めた。
 「南三陸署が一時、3階まで浸水した。つまり、その程度の津波であり、かなり心配だ」
 県警本部長竹内直人の報告に一同は息をのんだ。建物の3階に達する津波など想像さえできなかった。
 竹内は続けた。「石巻署長の話によれば、鮎川(地区)は壊滅に近いくらいの被害だと…」。驚いた出席者の1人が「ええっ!」と思わず声を上げた。
 「壊滅」の言葉が本部会議で使われたのは、この時が初めてだった。村井たちが言葉の本当の意味を知るのは、もっと先になる。
(敬称略、肩書は当時)
 ◇
 東日本大震災で救助や復旧活動の「司令塔」となった宮城県災害対策本部。意思決定を担った本部会議には、村井知事や県幹部らが未曽有の災害と格闘したドラマがあった。当時の取材メモや音声記録などを基に、初動の1カ月を振り返る。
(報道部・長谷美龍蔵)

[東日本大震災の宮城県災害対策本部会議]村井嘉浩知事が本部長を務め、副知事、各部局長、教育長、県警本部長らで構成。政府、自衛隊、海上保安庁、東北電力、仙台管区気象台などの担当者も加わった。震災発生直後は1日数回、3月23日からは1日1回、その後は随時開催され、2012年3月26日まで全95回を数えた。会議は報道機関に全面公開され、応援に駆け付けた全国の都道府県職員が同席することもあった。


2020年11月02日月曜日


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