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「あの日から」第5部 命を救う(1) 私設避難所で70人生還

佐藤善文さん

 未曽有と形容された東日本大震災で、「いつか必ず来る」と津波の襲来に備え、大勢の命を救った人がいた。東松島市野蒜地区の高台に私費で避難所を造って住民を守った男性と、津波の犠牲者がゼロだった岩手県洋野町で自主防災組織を率いる男性の思いを追った。

 国土地理院の地図にもない小さな「山」が70人以上の命を救った。野蒜地区の「佐藤山」。高さ約20メートル。歩いて数分で着く山頂には避難小屋もある。
 「万が一、使えなければ避難所の意味はない。『完成』ってないんだよね」
 佐藤山を所有する佐藤善文さん(86)=東松島市野蒜ケ丘=が今月上旬、入れ替え用の飲み水を避難小屋に運んだ後、草刈りに精を出していた。
 奥松島観光タクシーの会長を務める。1999年に65歳で長男に経営を譲り、自宅近くの土地約1.8ヘクタールを購入。温めていた避難所整備計画を実行に移した。
 「道楽」。当初は家族も含め誰にも理解されなかった。それでも「野蒜には観光客が多く、津波避難場所が必要だ」との信念を貫いた。木造の小屋を建て、その年のうちに住民らを受け入れる環境を整えた。
 佐藤さんはJR野蒜駅近くの自宅で地震に遭った。ブチュブチュブチュー。鈍い音が響く。「津波だ!」。妻さつきさん(86)が線路に浸入する濁流を目撃した。夫妻は、自宅に戻ってきた長男輝弥さん(57)のタクシーに乗り、佐藤山に向かった。車から降りると津波はすぐ足元まで迫っていた。
 山頂には既に40人以上が避難していた。その後も頭から血を流した男性やずぶぬれになった女児ら近隣の住民が次々に逃げてきた。佐藤さんらは溺れかけた住民を何人も棒で引っ張り上げた。
 理容師横田浩子さん(53)=同市矢本=は、第1波を野蒜駅近くの店舗兼自宅の屋上でやり過ごした後、佐藤山に向かった。
 4メートル近い高さの津波で1階は水没。義父母と長女は市指定避難所の野蒜小に先に避難させていた。学校に向かおうとしたが、がれきに行く手を阻まれた。
 日が暮れ、寒さが厳しさを増す。12畳の小屋からテーブルなどを出し、佐藤さんは2台のストーブを付け、高齢者や子ども、女性を優先して小屋に案内した。
 「寒い中、外で回し飲みをしたお湯の温かさが忘れられない」。横田さんは今も佐藤さんに感謝する。
 外では男性たちが薪を集め、火をたいた。「娘たちは大丈夫だろうか」。横田さんは野蒜小にいる家族の身を案じていた。
 東松島市の死者・行方不明者は1133人。半分近い516人は野蒜地区の犠牲者だった。横田さんの義父母も野蒜小体育館内で津波にのまれ、帰らぬ人となった。
 佐藤山から見える仙台方面の空は、製油所の火災で真っ赤に染まっていた。暗闇の中、がれきの方から「助けて」「寒いよ」という声が届いたが、次第に聞こえなくなった。
 佐藤山に避難した70人以上の住民は、2011年3月13日の午前中までに自衛隊に全員救出された。ストーブやたき火、布団があったため、低体温症で亡くなる人はいなかった。
 「野蒜にもいつか津波が来るかもしれないと避難所を造った。正直、これほどまで大きいとは…」
 私設避難所と市指定避難所で分かれた明と暗。多くの命を救った佐藤さんだが、気持ちは晴れなかった。
(横川琴実)


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2020年11月11日水曜日


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