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「あの日から」第5部 命を救う(2)津波を警戒、1人で整備

「佐藤山」の登り口に設置した手作りの看板の前で、見学者を出迎える佐藤さん=10月26日

 道路に乗り上げた漁船を見て、佐藤善文さん(86)=東松島市野蒜ケ丘=は強烈な不安に襲われた。
 「地球の裏側で起きた地震でこんなに大きな津波が来る。もしも近くで地震が起きたら…」
 1960年5月のチリ地震津波の直後、佐藤さんは石巻市や塩釜市を訪れ、津波の脅威を目の当たりにした。当時26歳。今も鮮明に覚えている。
 77年にタクシー会社を設立し、観光名所・奥松島を案内してきた。好景気に沸く80、90年代、JR野蒜駅はホームに入り切れないほどの観光客であふれ返った。
 今、津波が来たら観光客が避難する場所がない。金華山近くには断層があると聞いた。人命を預かるタクシー運転手という仕事柄、鳴瀬町(現東松島市)の担当者や地元観光協会に、避難所整備の必要性を訴えた。
 「今まで野蒜に津波が来たことはない。避難所は必要ない」。取り付く島もなかった。

 2010年の防災マップによると、野蒜駅周辺の市指定避難所は野蒜小で、一時避難所は鳴瀬川沿いの新町コミュニティセンター。いずれも東日本大震災の津波で全壊した。
 「誰も造らないなら、自分が造ればいい」。佐藤さんは60歳の時に決意し、「65歳で引退し、津波避難所を造る」と宣言した。5年後の1999年に長男輝弥さん(57)に経営を託し、避難所造りに着手した。
 妻さつきさん(86)は「庭の草取りも十分にできていないのに、山なんか絶対無理」と大反対したが、決意は揺るがなかった。
 山はやぶだらけ。避難道を造るため、剪定(せんてい)ばさみや鎌で枝や雑草を払った。徒歩数分の頂上にたどり着くまで3カ月かかった。
 「津波なんて来ねぇのに何やってんだ」「ごみ捨て場になるから道を造るのやめてけろ」
 震災前、野蒜の住民の多くが「津波は東名運河を越えない」と信じていた。こつこつ作業する佐藤さんを冷笑したり、苦情を言いに来たりする人もいた。

 後に「佐藤山」と呼ばれる小高い丘に、佐藤さんはサクラやアジサイを植えた。ブロックや角材を使い、高齢者らが登りやすいよう4本の避難道を整備した。
 山頂にはあずまやと木造の避難小屋を建てた。小屋には電気を引き、ストーブ2台、布団を用意した。毎日飲み水を入れ替え、100リットルを常備した。
 佐藤さんは近所の人たちとカラオケや花見、山菜採りを楽しみ、佐藤山は憩いの場にもなった。「たとえ津波が来なくても、花見ができる山になればいい」。「花咲かじいさん」を地で行く佐藤さんの取り組みが、震災で約70人の命を救った。
 さつきさんは「結果的に役に立ったけど『津波なんて来なかったね』と笑い話になった方が良かったかも…」と複雑な思いを口にする。
 野蒜では多くの命が犠牲になった。佐藤さんも「『避難所ができたよ』ともっと宣伝できていれば、もっと助かった人がいたかもしれない」と残念がる。(横川琴実)


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2020年11月12日木曜日


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