河北新報特集紙面2025
2025年12月27日 河北新報掲載
史実に学び、伝え、命が守られる未来を。
史実に学び、伝え、
命が守られる未来を。
東日本大震災の前後に生まれ、
「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」を拠点に
語り部として次世代への伝承に取り組む中高生たち。
住民の3割にあたる犠牲者93人の名を刻んだ
「東日本大震災 杉ノ下遺族会慰霊碑」の前で、
当事者として体験を語る小野寺敬子さん。
2年間にわたって気仙沼市・南三陸町の被害記録調査を行い、
独自の展示企画で発信する「リアス・アーク美術館」の山内宏泰館長。
それぞれ違った視点で震災を語る3者から学び、
悲劇を繰り返さない未来への備えについて考察しました。
若者だからこその共感を得る
中学生や高校生の語り部
この日、最初の訪問先は、4階まで達した津波で甚大な被害を受けた気仙沼向洋高校旧校舎を震災遺構として保存し、当時そのままの被災状況を一般公開している「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」。1階の談話室で、語り部として活動している階上中学校や気仙沼向洋高校などの中高生12人が一行を出迎えました。発災時の映像を見た後、若き語り部たちのガイドで施設を見学。各所で津波による被害や当時の避難状況などを詳しく解説し、参加者は深くうなずいたりメモをとったりしていました。屋上では、津波の脅威にさらされながらも20人の教師が学校の重要書類を守った話、生徒を引き連れ2.5㌔先の階上中まで三次避難した経路についても臨場感あふれる語り口で教えてくれました。再び談話室に戻り、2011年3月22日に行われた階上中の卒業式の映像を視聴。卒業生代表の梶原裕太さんの答辞に、涙を浮かべる参加者もいました。

屋上で教師や生徒、
地域住民の避難状況について語る中学生
語り部たちに見送られ、バスは杉ノ下地区慰霊碑へ。杉ノ下遺族会メンバーで、語り部として活動する小野寺敬子さんが同行しました。明治三陸津波で浸水を免れ、市指定の一次避難場所だった高台で犠牲となった住民の名前が刻まれた石碑を前に、混乱を極めた当時の状況や父親を失った悲しみを穏やかな口調で伝える小野寺さん。高さ19mの避難タワーが立つ築山に移動し、海沿いの高台を指差しながら8人の命を津波から救ったケヤキの木についても教えてくれました。「語り部を続けているのは、私も忘れないため」と語る眼差しには、ひたむきで強い意志が宿っていました。

デジタル絵本「ケヤキの想い」の
原作も手がけた小野寺敬子さん
繰り返される大災害の史実から
未来の備えを考えるきっかけに
昼食後、東北・北海道の現代美術とともに、地域の歴史・民俗資料を紹介する「リアス・アーク美術館」を訪問。震災後、2年間にわたって気仙沼市・南三陸町の被害記録調査を行い、2013年4月から公開している常設展示「東日本大震災の記録と津波の災害史」を企画した館長の山内宏泰さんと対面しました。展示室には、被災現場の写真203点、被災物155点、その他の歴史資料など137点を展示。写真にはすべて短い文章が添えられており、「私たちが何のためにその場でシャッターを切ったのか、その理由が書かれています」と解説。また、津波で流された日用品や建材などの展示物を指差しながら、「皆さんは、ガレキという表現をよく耳にしたと思いますが、辞書には意味のないもの、つまらないものと書かれています。私たちは当時、これらをガレキと呼ぶことに抵抗を感じました。そこで、私は被災物という言葉を作り、そう呼んでいます」とご自身も自宅を流された山内さん。展示方法も特徴的で、展示されている被災物には、収集場所、収集日時を記した赤色のカードともにハガキ状の用紙も添えられており、方言による語り口調で物語が綴られています。
山内さんは一旦解説を終え、参加者にゆっくり展示を見学する時間を設けました。15分後、明治29年・昭和8年の三陸大津波、昭和35年のチリ地震津波に関する資料を展示するコーナーに参加者を集め、三陸沿岸部では約40年に一度の頻度で大津波が襲来している事実を説明。「皆さんは、報道やニュースなどで東日本大震災の災害規模を表現するフレーズとして、想定外、未曽有、千年に一度という言葉をよく目にしたと思います。しかし、災害史を遡れば、これが間違いであることが明らかです。私がこの展示を企画するきっかけになったのは、ちゃんと震災を伝える施設を作らねばと思ったからです」と訴えかける声の強さに、ハッと表情が変わる参加者たち。さらに、山内さんは「防潮堤で津波を完全に防ぐことは不可能です。どんなに高く作っても時間稼ぎになるだけ。これまでの復興計画は、多くの課題を抱えて進んできました。だからこそ過去の資料や文献に学び、未来に向けてどんな準備をすべきかを考えてください」と結びました。

「リアス・アーク美術館」の山内宏泰館長
「リアスアーク美術館」の展示スタイル
- 現場写真

- 2011年6月15日、気仙沼市波路上瀬向「気仙沼向洋高等学校」の状況。正門から望んだ校舎と校庭はあまりにも惨めな姿をしていた。四階建て校舎の三階までの窓ガラスはすべて無く、校庭はまるで水田のように湿地と化し、辺り一面に流出物が散乱していた。津波襲来時の様子を想像すると背筋が凍る。学校の生徒やその保護者、先生方や卒業生は、この姿を見て何を思うのだろうか。
- 被災物

資料提供:リアス・アーク美術館
震災の教訓が残る地をたどり
復興が進む美しい港町を展望
リアス・アーク美術館を後にし、一行は気仙沼市街へ。途中、震災伝承施設になっている阿部長商店創業者の元自宅「命のらせん階段」に立ち寄りました。震災の5年前、屋上が避難場所となるよう外付けの階段を私財を投じて設置。30人の命を救ったストーリーに、参加者はみな感銘を受けていました。
最後に、2021年にできた犠牲者の追悼と記憶の継承を願う「気仙沼市復興祈念公園」にも足を運び、復興を遂げつつある港町と気仙沼湾の美景を眺めました。ここでは、観光体験の受け入れを行っている「KESENNUMA BASE CAMP(ケセンヌマ・ベース・キャンプ)」の熊谷俊輔さんが、気仙沼の魅力を紹介。「気仙沼に観光で訪れたお客さまの声が、地域にとって力になっていると感じています」と教えてくれました。

移築保存されている「命のらせん階段」を見学

KESENNUMA BASE CAMPの熊谷俊輔さん
一般参加者の声

- 震災時は内陸に住んでおり、停電や断水などで大変な状況ではあったのですが、今回、映像や写真、津波が襲った教室などを目にして、どれほど深刻な災害だったかを再認識しました。特に、階上中の卒業式の映像は、涙なくしては見ることはできませんでした。私も小さな子どもがいるので、残された親や子の気持ちに重ねてしまいました。震災から時間が経過し、私自身にとっても遠い過去になりつつあります。次の世代の命を救うために、伝承という形で受け継いでいかなければと学びました。
賛同企業の声

- 震災遺構を直視するのが怖いと感じ、これまで向き合うことを避けていました。このツアーに参加するのもかなり悩んだのですが、「仙台アンパンマンこどもミュージアム&モール」が15周年を迎えることもあり、きちんと振り返り、学ぼうと決意しました。私には小学2年生の姪がいるので、一緒に震災について話ができればと思っています。「リアス・アーク美術館」では、未来につなげる学びの話が印象的でした。今回の経験により、他の震災関連施設も訪ねてみたいと思うようになりました。
